2023年度 目路はるか教室

2023年度 目路はるか教室
1年全体講話

“慶應義塾に学び慶應義塾に生きる”

1976(昭和51)年卒業慶應義塾 常任理事・慶應義塾大学法学部 教授

岩谷 十郎 氏(イワタニ ジュウロウ)

 今年の5月、私の普通部の同期生で、目路はるか委員会委員の假屋園伸さんから、講師を依頼されました。最初私は、2005年の第8回の時にもコース別授業を担当したことがあるので、今回は遠慮しようと思いました。しかし、今年の3月の普通部の卒業式で3年生に向けた祝辞を述べたので、今度は1年生に向けた全体講話をお願いできないか、とのご趣旨に心惹かれました。今年は普通部125年の記念の年でもあり、この機会に後輩のみなさんと直接お話してみたい気持ちから、お引き受けすることにしたのです。
 普通部時代、私はいろいろな迷いや悩みの中にあったことを思い出すのですが、それは、「自分は何者なのか」という問いに必死になって答えようとしていたからでしょう。人は一生という時間をかけて「自分」を形成してゆくものですが、普通部の時の私は、かなり背伸びをして、自らの成長を速めたかったのかもしれません。
 ところで、「慶應義塾とはどのような学校なのか」という問いに対して、慶應義塾のアイデンティティーを宣言した文書が「慶應義塾之記」です。そこには、幕末に三度、欧米諸国を視察した福澤先生が、慶應4(1868)年5月、芝新銭座に学塾を開き、その名前を「仮に慶應義塾と名付ける」と記されています。皆さんは、「義塾」とは英国のパブリックスクールの漢語表現だということは学んでおられるかもしれません。でも、その「義塾」が、なぜ「慶應」と名付けられたのかについては、当時の元号であったという理由以外思い当たらないのではないでしょうか。では、先生やそのお弟子さんたちは、学校名に元号をつけようと初めから思っていたのでしょうか。私はそうではないと思っています。なぜなら、その「仮に」という言葉には、とりあえず、といったとても暫定的な響きを感じるからです。
 また、この「慶應義塾之記」には、福澤先生が、江戸時代の蘭学の先達の苦労を「自我作古(われよりいにしえをなす)」の業として思いを馳せつつ、自らの学塾はそうした蘭学・洋学を継ぐ学校であると明言しています。ふつうこの「自我作古」とは、その先の誰も足を踏み入れたことのない領域を開拓して後世に名を残す大事業を成し遂げること、として理解されているのですが、私は、福澤先生においては、その字の通り、「自らが越えられてゆく=古になってゆく」という意味で用いられていたと思っています。以前、横浜初等部でお話をした時に、ある初等部生が、福澤先生は「ボクのやったことは古くなってゆくから、新しいことをやってね」という意味で言ったのですね、と素敵な解釈を示してくれました。そして「自我作古」は一代で成し遂げられるものではありません。後輩がその先輩の仕事を乗り越えつつも偉業として讃えることにより、初めて次代に継承されることになるのです。これが「慶應義塾之記」に銘記された義塾創立の精神の一つだと私は思っています。
 江戸時代の私塾の名称は、塾の開設者の名や号、あるいは先人から受け継いだ学派・学統に因んで付けられることが多かったと言われています。これに対し、江戸時代の末期に立てられたその“学塾”は、福澤塾とは命名されず、また私塾として継ぐべき学統も「自我作古」である以上は、絶えずその内容が上書きされ刷新されてゆくわけで、当時とすればそれこそ前代未聞の学校が誕生したわけです。前例のないその“学塾”の名付けは、前例に倣った命名法では対応できず、では「仮に慶應義塾とでもしておこうよ」、とならざるを得なかったのではないでしょうか。
 “慶應”義塾と仮に命名されてから155年の間、「真の」名前はどうすべきかと問うた者は誰も現れなかったと思います。慶應義塾における「自分は何者であるのか」という問いへの答えは、封建時代の末期に立てられながら、一貫した主体性を失わずに歴史の中に古びず、昔も今も新しい境地に挑み続ける学塾の秘密―自我作古―に隠されていると私は考えているのです。

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