労作展

2019年度労作展 受賞作品

国語科

小説を書くということ

3年Y.T.君

 三年間、国語の小説作りに取り組んで思ったことがある。それは国語の作品の儚さだ。正直な話、国語の作品は美術や技術の作品に比べてとても地味だ。教室に飾られているだけで「おっ、これはすごい」となるような美術や技術の作品とは違い、小説は飾られているだけでは全く意味がない。なぜなら、パッと見ただけでは魅力が伝わらないからだ。どれだけ面白い話を書いても、それを読んでくれる読者がいなければ意味がない。

 しかし、労作展当日に読まれる可能性は低いと思う。椅子もなければ、立ち止まり続けたら邪魔にもなるあんな場所で、好き好んで小説を読み始める人はなかなかいないと思う。

 なぜそんなことが言えるのか。それは実際に僕が何度も国語の作品を素通りしてきたからだ。国語に取り組んでいる僕ですら、いくつもの国語の作品をちらっと表紙を見るだけで素通りしてきた。書いた人には申し訳ないが、いつもの学校とは違う非日常的なあの空間で、落ち着いて小説を読む気には到底なれない。

 そんなふうに読まれない本に何の意味があるのだろうか。確かに自己満足にはなる。「僕はこんな本を作りあげることができたんだ」と思えるのは素晴らしいことだと思う。しかしそれで終わりでいいのか。せっかく書いた本ならば、誰かに読んでほしいと思うのが自然だ。

 ではどうすればより多くの人に自分の本を読んでもらえるのか。それには本の内容以上に装丁が重要だと思う。自分が書店に行った時のことを考えてみる。もし目の前に、何百枚もの原稿用紙が狭まれた大きなファイルと、手に取れるサイズの一冊の本があったらどちらを読みたいと思うだろうか。読む前なので、もちろんどちらが面白いのかなんて分からない。しかし多くの人は読みやすい一冊の本の方を選ぶだろう。

 これは労作展にも通ずることだ。自分が書きたいと思うものを書くのはもちろん大事だ。しかしそれ以上に読者への配慮というものを考えなくてはならない。適度に改行はされているのか、ページ数はきちんと振られているのか、誤字脱字はないのか。小説の面白さとは一切関係ないこれらの基本的なことが、実は小説の内容以上に重要なのだ。小説を書く時には常に読者の存在を念頭に置いておかなければならない。このように、小説作りをただの自己満足で終わらせたくないのであれば、読者への配慮は必要不可欠だ。

 今年の労作展当日、僕がたまたま教室を訪れると、クラスメイトが僕の作品を読んでくれていた。そしてその子は「面白かったよ」と感想までくれた。その時、僕は改めて小説を書いて良かったなと思えた。自分が書いた一文字一文字を追いかけてもらうことで、自分が作り上げた世界に読者を連れていくことができる。そして面白ければ「面白かったよ」と言ってもらえる。こんな特別な体験を味わえるのは、国語ならではの魅力なのではないだろうか。

 本というのは、誰かに読まれて初めて完成すると思う。それだけに読者への配慮は必要不可欠だ。そしてそれだけに、多くの人が訪れる労作展で小説作りに取り組む価値が大いにあると思う。