労作展

音楽科

シューマン アベッグ変奏曲 作品1 演奏と研究 / 労作展、その歴史に恥じぬために

2年T. S.君

 労作展とは不思議な行事である。普通部が最もその底力を発揮し、外部からも高い評価の声が挙がる。しかし、その出展内容は生徒一人一人に任される。下手をすれば悲惨な内容になりかねないが、毎年普通部生の真の力が結集されている。ここに「自ら学ぶ普通部」が良く表れていると僕は考えている。そしてそれは、今まで八十七回というたくさんの歴史の中で確実に守られてきたものだ。それに続き、また新たな歴史の一部となるのはかなりのプレッシャーである。僕は音楽科でその壁を破ろうとした。
 今年の題材はシューマン「アベッグ変奏曲」であった。変奏曲なので、同じモチーフがどんどん使われ研究しやすいと思われがちだが、実際にはそうではない。何より理解が難しいのは曲ではなく作曲家、シューマンである。シューマンは非常に特異な作曲家で、彼の考え方、発想には理解できないことが多々ある。また、それが表れて曲の展開が突飛なものになる。それについていくのも大変だし、何より言葉で説明しなければならないのだ。ちなみに、一年生の時にはショパン「バラード第三番」について研究したが、自然な流れだったため、まだやりやすかったと思う。その意味では昨年より一段階上のレベルに上がったので「成長」がみてとれた。
 そしてこの研究の一環として行うものが、演奏だ。先ほどシューマンの特異性を言葉で示さなければならない、と書いたがそれだけでは説明できないものがある。その「もの」が何なのかは分からない(だから言葉で説明できない)。しかし、もともと作曲家との接触は音楽を通じてのものだから、そのようなものが存在して当然なのだ。実際に弾いてみて分かるもの、研究をした上で弾いたから感じられるもの。それらを探し当てることが最大の喜びであり、成果なのである。そしてそれを追求することで自分にとって未知の世界へと進むことができるのだ。
 しかし、演奏においての理解というのは自分だけのものである、ということを忘れてはいけない。「解釈の違い」とよく呼ばれるものによって一人一人その認識が変わってくるからだ。つまり、同じ音符を追っていき、その裏に隠された作曲家の意図を探ろうとしてもそれは推測に過ぎず、必ずしも正解は存在しないため個人個人で全く異なる理解になってしまうのだ。その曲を深く追求しようと思えばその十人十色の理解をできる限り拾い集め、それをまとめ、考えて作曲家に迫らなければならないのだ。それをするのに必要なのが、「聴く」という動作であるのだ。自分の演奏で満足するのではなく、一歩引いた所から客観的に自分、又は他人の演奏を聴くことで理解を深めるのだ。
 以上、今まで僕が今回の労作展において意識してきたこと等を書いてきたが、まとめると「文書での研究」「演奏」「聴く」の三要素を意識していた。この三要素全てがそろった時、それは完璧な研究であり、何よりも僕が胸を張ってこの労作展の歴史上に残せる作品になる。今回の作品でもそれはほとんど達成できていると思う。しかし、まだより良く出来る余地もある。より入念な、そしてより多くの「聴く」要素である。聴いて、それを活用した文書研究という部分でまだ甘い所があった。来年はこの部分を直してより良い作品にしたいと思う。
 労作展というものは成長と共に三年間行うものだと思っている。意味もなく三年間やってもダメである。その面からいうと、今回きちんと問題が分かったのは良いことだ。今まで書いてきた三要素の中に一つ、最後につけ加えたいと思う。「反省」だ。これをふまえて来年も研究していきたい。労作展の歴史に恥じない研究を。