労作展

2018年度労作展 受賞作品

社会科

一枚の写真から

2年Y.H.君

 「自分に繋がる人たちがいた」と感じたことがあるだろうか?たぶん、当たり前のように家族や友達に囲まれて過ごしている僕たちは、普段の生活であまり意識しないことだと思う。今年の夏、一枚の写真を通して、僕はそのことを強く感じるようになった。

 きっかけは祖母の家の仏壇の奥から出てきた一枚のセピア色の家族写真。白髪の老女が三人の幼子、その両親と一緒に写っており、その背景から自宅の庭で撮影されたと思われる。深藍色の額装には中津の写真館の名前、その裏面には明治四〇年六月と撮影日が書かれていた。

 祖母によれば、その老婆は福澤諭吉の姉、服部鐘とのことだった。これまで僕は福澤家の遠縁にあたると聞いていたので、さして驚きはしなかったが、眼前に明治時代の先祖の写真を見て空想が掻き立てられた。祖母に、三人の幼子の父母である若い男女のことについて尋ねたが、父親の名前は「元治(もとじ)」とやや自信が無さそうに小声で答えた祖母。「もとはる」だったかもしれないと、その後で付け足した。つまり、何もわかっていないのだ。今年の労作展のテーマに困っていた僕は、この人たちに興味を持ち、鐘とその家族について調べることにした。

 父は強く反対した。福澤諭吉と比べて、あまりにも鐘に関する情報が少なく、期待する結果が得られないだろう、との理由だった。それでも、僕は一枚の写真・鐘について知りたかったので、まず戸籍を取ることにした。地元の役所・中津市役所で自分の身分証明書から四代遡った複数の戸籍を取った。ここまでは思っていたより簡単に戸籍を取得することが出来た。さらに、三田の慶応大学や普通部の図書館から「福澤諭吉事典」や「福澤諭吉書簡集」を借りて、福澤諭吉から鐘への書簡約七十通を現代語訳し、姉弟の生々しいやり取りを丹念に読み進めていった。

 それらの情報を頭にインプットした上で、八月に福澤諭吉に縁がある、あるいは服部鐘の生きた痕跡が残る中津を訪れた。中津に到着後真っ先に、城下で最大の共同墓地であった竜王墓地に行き、服部復城、鐘夫妻の墓参りをした。つぎに、福澤諭吉旧居・福澤記念館を見学し、特別に福澤諭吉実筆の鐘宛ての直筆の書簡など様々な資料を見せていただいた。記念館入り口で写真を撮ってもらい、記念館のホームページに掲載されたのは、僕だけでなく父や祖母にとっても良い思い出となった。
 調べを進めていくうちに鐘の生涯は苦労の多い人生だったことが分かった。幼くして父を亡くし、結婚後は夫にも先立たれ、さらに他家にいた実子までも若くして死んでしまった。それだけではない、母の死後養子に迎えた兄三之助の遺児も、看病の甲斐なく病死してしまった。そんな鐘を心配した福澤諭吉は優しさと金銭的な援助を持って接していたことも分かり印象的だった。日本の近代化を進めるという大きな仕事をしているにも関わらず姉のことを気遣いし生活の細やかな指示まで送っている。まるで望遠鏡と虫眼鏡を同時に使いこなしているようだ。  

 そんな諭吉のサポートもあり、鐘は三之助の孫を養子に迎え、婿を取り子供が生まれ、晩年ようやくは家族に囲まれた幸せな時を過ごすことができたようだ。あの写真に写っている人たちは実の親子ではない。でも愛情という強い絆でつながっている親子なのだ。それを想った。僕は、白髪の老婆鐘の顔がなんとも穏やかで満ち足りた表情に感じたのだ。祖母の家で見つかった一枚の写真には、大きな幸せが写っていた。

 今回、「自分に繋がる人たちがいた」ということを強く感じることになった。服部鐘が、必死になって服部家を未来に繋げたからこそ今の僕がいる。また、それに気づかせてくれたすべての人に感謝したい。

先日、お礼を兼ねて、今回の論文のコピーを福澤諭吉旧居・福澤記念館に送らせていただいた。