2025年度 目路はるか教室
2025年度 目路はるか教室
3年全体講話
君たちはどう生きるか、そして僕はどう生きたか
1962(昭和37)年卒業慶應義塾大学名誉教授・元慶應義塾長
安西 祐一郎 氏(あんざい ゆういちろう)

年の離れた3年生に何を話そうか考えたあげく、普通部の頃から今まで自分がどう生きてきたかを率直にお話しすることにしました。
まず普通部生当時のこと。先生方や友人に恵まれ、勉強ができなかったわけでもなく、労作展は3年間和文英訳に没頭、3年生の時は剣道部の主将を務めた、いわば模範的な生徒でした。
塾高から塾大学に進学、ラグビーに打ち込み、そのまま母校に職を得て、外から見れば順風満帆、しかし現実には研究も大学の仕事も合わず、心の中では孤独感の日々。葛藤の中で、慶應の大型コンピュータで自作したゲームのプログラム(今でいうAI)との対戦を徹夜で続けたこと。思い余って、面識もないアメリカの高名な学者(のちにノーベル経済学賞を受賞するカーネギーメロン大学のハーバート・サイモン教授)に行かせてほしいと手紙を送った話。思ってもいなかったOKの返事が来てアメリカに渡り、その後50年続くことになる本格的なAIと心のはたらきの研究を始めた30歳の頃のこと。
メジャーリーグトップの厳しさ楽しさを経験してしまうと日本の野球には戻れないという感覚か、慶應に戻っても周囲から孤立してしまう。紆余曲折の末に38歳で慶應に辞表を出し、「慶應には二度と戻らず」と周りに宣言して札幌に移住、北海道大学文学部に転職した頃のこと。その後塾内で湘南藤沢キャンパス創設の議論が始まり、その影響が北海道の私に波及して塾の理工学部に再転職、慶應とは縁を切ったはずの人生がひっくり返った話。
その後学部長に選任され、塾長として創立150年の記念式典や記念事業に携わり、結局は慶應と切っても切れない人生になりましたが、手紙一本を頼りにアメリカに渡ったときが学者人生の始まり、家族とともに札幌に移住したときが慶應に頼らない本当の人生の始まりでした。
私の物語は自慢話でも苦労話でもなく、一人の人間が多くの人に支えられて送ってきた人生を振り返ってみただけのことで、普通部生の皆さんにはそれぞれの人生が待っているでしょうが、人生の分岐点に差し掛かったときにでも思い出してもらえれば嬉しいです。
この歳になってみると、泣いても笑っても、怒っても喜んでも、一生は一回しかない、それが実感です。いろいろなことがあっても、一日一日を精一杯に暮らしていけば、人は見捨てない、必ず誰かがどこかで見ていてくれる、これも実感です。普通部生には世界を相手にしていってほしい。皆さんのこれからの人生に幸あらんことを祈っています。