2025年度 目路はるか教室

2025年度2Eコース

言葉を磨く、思考を磨く

大阪大学 大学院人文学研究科 教授

田中 智行 氏 (タナカ トモユキ)

 普通部を訪れるのはおよそ二十年ぶりで、教室の窓から眺めるテニスコートやグラウンドの風景が懐かしかったです。
 私が普通部にいたころ、フランスの作家・プルーストの研究で名高い牛場暁夫先生がご講演にいらっしゃいました。お話の内容はほとんど覚えていないのですが、作品中の雨の描写を数行だけ印刷したプリントを配布され、「これだけでも(作品の特質が)けっこうわかる」という意味のことをおっしゃっていたのが印象に残っています。
 私の話も、遠い将来、誰か一人の記憶にどれか一言でも残っていればいいのです。「みんなに」通じる言葉も必要ですが、一期一会の場では「他でもないあなたにだけ」届く言葉を残したいと、私は思います。
 私の仕事は、古い本が相手です。四百年ほど前に出版された『金瓶梅』という大長編小説を十年以上かけて翻訳しましたが、塾高の図書室で最初に借りて古い訳書を読んだときの印象は、決して良いものではありませんでした。すぐに面白さがわかる本もいいですが、最初は良さがさっぱりわからない、それでもなぜか気になってときどき手に取るうち、いつしか人生に深く関わる仲間となっていく――そんな本も大切です。人とのつきあいと同じですね。
 授業の最後には、漢詩の自由訳に取り組んでもらいました。原文から読み取ったイメージを、自分の言葉で過不足なく表現しようとする営みには、日本語を磨く努力が求められます。そして日本語を磨くとは、洒落た言い回しを覚えることではなく、本質的には、思考表現の精度を高めることなのです。
 すぐにわからなくてもかまいません。どうか多くの本を手に取ってみてください。いまのあなたに感じられることは、いまを逃せば二度と感じられないことかもしれないのです。