美術科
四季を描く
3年K.K.君
労作展で私はこれまで一貫して植物をテーマに取り組んできた。 今年は植物の造形や色彩をできるだけそのままの形で生かしたアート作品が制作できないか挑戦したのである。
テーマを定めたのち、 私がいつも参考にしているのは友人や先輩方の過去の作品である。 『普通部会誌』 に掲載された先生の講評や友達の感想文も大いに役立つ。 各科説明会の國分先生のプリントは、 「何を画題に選び、 それを通じて表現したい事がらは何か。 そのためによく実物を観察せよ。」 というメッセージだと受け止めた。 そこで私が自分に課したルールは、 ①できるだけオリジナルな技法を用い、 ②他の作家の作品の写しでなくオリジナルな画題を描くというものだ。
第一に技法開発である。 実は今でも私の心を捉えて離さない先輩の作品に二〇二一年度の 「レジンアート~金魚すくい~」 がある。 桶の水の中で二十匹あまりの金魚がまるで生きているかのように泳いでいる美しい作品である。 この金魚を植物に置き換えられないかと発想した。 但しレジンという材料は曲物で、 使用する会社の製品によっては固化させた後、 よほど丹念に磨き上げないと表面が曇ったままで見栄えが悪
い。 事実、 「研磨不足で納得がいかないまま終わった」 と制作日誌に書かれている別の作品もあった。 既に私の作品構想は、 パネル状の大きな樹脂に植物を埋め込んで四季を描いた屏風に仕立てようと、 どんどんとスケールが膨らんでいたため、 万が一レジンの透明度が上がらなかったら一大事だ。 様々な樹脂会社さんに電話で問い合わせたり文献を調べたりしたが、 結局レジンの利用を断念し、 今回は代替策として二枚のアクリル板の間に植物素材を挟み込む手法を採用した。 残念だが仕方あるまい。 時には諦めも必要だ。
技法面で樹脂と対をなすのが、 封入する植物素材の事前加工である。 生の植物は腐るので決して入れてはいけない。 紙面の関係で 「桜の花びら」 についてだけ触れる。 今だから告白すると私は三月末に普通部を訪れて桜の花をたくさん摘んだ。 ごめんなさい。 そうして手に入れた大切な素材であるが、 桜の押し花はとても難しく、 成功するのは二~三割である。 また仮にうまくできても乾燥剤を入れ脱気したパックの中で保存しないと、 空気中の湿気を吸って数日で変色が始まってしまう。 アクリル板の間に挟んでも同じだ。 だから花びらが美しく保たれる日数を予め実験から割り出し、 逆算して春の図だけは労作展の数日前に制作するという賭けに出た。
第二が画題とその表現である。 これまで私は福澤先生や慶應義塾を描くことにためらいがあった。 おこがましいと思っていたのである。 ただ今年は最後の労作展でもある。 妙案はないかと思案していたところ、 「福澤先生の姿をそのまま描くのではなく、 先生がご覧になったであろう景色を描く」 というアイデアを思い付いた。 ならば善は急げと三田キャンパスに出掛け、 発見したのが三田演説館である。 改めて先生や慶應義塾の歴史を調べるうち、 先生は大阪で生まれ、 幼少期を大分中津で過ごした後、 大阪船場の適塾で学び、 江戸に出て自らの塾を開き、 慶應義塾の本拠地を三田に定めたことが分かった。 先生が青春を過ごされた大阪を 「夏」 に、 先生が帰郷の折、 紅葉で有名な耶馬渓の景勝保全に尽力されたことから中津を 「秋」 に、 三田は 「雪地 (ゆきち)」 と号した先生の終焉の地でもあるから 「冬」 を、 それぞれ当てはめた。 残るは春である。 普通部を作られたのは先生だが、 日吉の普通部をご覧になられたことはない。 そうだ、 先生の理念や教えが大きく花ひらき息づいているこの地、 日吉を 「春」 にしようと考えた。
春は日吉の桜、 夏は大阪の川、 秋は中津の月、 冬は三田の雪の景色をスケッチしながら、 福澤先生の生涯とその業績に思いを寄せた。 時は過ぎ去ってしまうが、 季節はめぐり人もまた生まれ変わるのではないか。 作品では、 四季の移ろいの儚さではなく、 人生を四季に見立てたその営みの逞しさを表現しよう。 そう考えながら 「四季草木花図樹脂屏風・本屏風」 を完成させた。 出来上がった作品は理屈っぽく、 表現力が伴っていないが、 それでも努力を評価して下さったのか賞を頂くことができた。 心より感謝申し上げます。