音楽科
探求の旅の始まり
1年K.T.君
「ピアノの響きから聞こえてくる鐘の音を、 どうぞお楽しみください」
ありがたいことに壇上の席にも座っていただくほど、 想定を超える観客に囲まれた労作展コンサートでの演奏をもって十三歳夏の作品はついに完成した。
労作展とは遥かなる探求の旅だと思う。 正解のない問いを自ら設定して、 人それぞれの手段でその答えを探し求め続ける。 人によってはその旅が、 生涯に及ぶこともある。 僕は自分と向き合った結果、 幼少期から自分に寄り添い続けている歌とピアノ、 大好きなその部分をもっと深いところまで探ってみたいと考えた。 設定した課題は、 ラフマニノフ作曲の前奏曲嬰ハ短調の演奏と研究。 僕にとっては少々高い壁だったが、 それでこそ普通部生だと思い挑戦することにした。
ロシアの作曲家ラフマニノフは、 故郷で慣れ親しんだ正教会の鐘の音を連想させる作品を数多く書き残している。 この曲も 「鐘」 の副題で親しまれ、 美しく強烈な印象を残す鐘のメロディが繰り返される。 僕自身それこそがこの曲の最大の魅力であると感じ、 聴いてくださる方々にピアノの響きから聴こえてくる鐘の音を感じてもらえる演奏の実現を目的として研究を進めた。 多角的な視点で見ることを大切に、 曲が書かれた背景や作曲家が生きた時代、 鐘にまつわる疑問を紐解くため地道な調査や考察を行った。 どうしても外せなかったのはラフマニノフが聴いたであろう鐘の音を自分の耳で確かめることである。 東ヨーロッパでは戦争が勃発し現地調査は困難なため、 国内にあるロシア正教会を探した。 函館の地で江戸時代より変わらない奏法で鳴り響く鐘の音を実際に聴いた時、 それは想像を遥かに超えるものだった。 特筆すべきは音色である。 日本で鐘の音といえば除夜の鐘である。 ゴーンというリズムだけの音。 しかし、 ロシア正教の鐘は変化するリズムと共にメロディを奏でていた。 これほど音色豊かで音楽的な鐘の音が十七世紀から存在していたことを知り、 まるでラフマニノフやチャイコフスキーなどロシアの作曲家の音の扉が開いて、 新たな視界が広がっていくようだった。 そして、 その鐘の音はラフマニノフの楽曲を通して今でも世界中に鳴り響いていると思うと感慨深かった。
一番苦労したのは、 楽曲を演奏する上で欠かせないアナリーゼである。 音楽理論を用いて楽曲を読みとくためなかなか骨の折れる作業でもあった。 特に和声分析は、 何度も一からやり直し、 心が砕けそうになったが、 この壁を乗り越えられたのはピアノとは別に指導を受けていたソルフェージュのお陰だ。 これまでの学びが大いに役立ち実を結んだ瞬間でもあった。
作曲家が楽譜に書き留めた音符や記号は、 僕たちにメッセージを送っている。 ほとんど暗号のように。 そうしたメッセージを読み取れた時こそ、 作曲家と対話ができたと考じられる瞬間である。 この夏、 ラフマニノフの曲との対話を通して、 どんなパッセージもどんな細やかな音の粒も全てが音楽を成し、 聴衆に語りかける力を持つ、 そんな唯一無二の演奏こそが、 人の心の奥を揺さぶると分かった。 その演奏に少しでも近づくため、 僕の探求の旅は始まったばかりだ。