労作展

2021年度 受賞作品

技術家庭科

火との格闘。幻の花炭製法が今ここに甦る。

1年K.K君

 僕はのろまだ。 おまけに手先が不器用だ。 小学校の頃も絵画や工作を時間内に完成させて提出できたためしがない。 そんな僕がなぜか技術家庭に挑戦した。 そのいきさつをはじめ、 労作展を通じ、 僕が考えたことを思いつくまま記してみたい。

 昨年度の 『普通部会誌』 の源馬先生の文章に驚嘆したのが動機の一つだ。 講評の中で 「経済的価値」 ・ 「付加価値を生む」 ことがものづくりの本質だとの解説があった。 何でも数字で物事を捉えることが好きな僕は、 この視点に飛びついた。
 僕を悩ませ続けたのも、 同じ源馬先生の言葉だ。 説明会のプリントで、 「観賞用途のみの作品は芸術作品」 と明言している。 このとき僕は、 既に 「花炭」 のテーマで走り始めた後だった。 「花炭そのものの製作ではなく、 花炭を焼く製法の開発だ」 と自分に言い聞かせる一方で、 「炭を焼いているだけじゃないか。 これに何の意味があるんだ?」 と自問自答する苦しい日々が続いた。
 ネットで 「花炭」 を検索すると異口同音に、 「花炭は飾り炭とも呼ばれ、 五百年以上も前に茶の湯で観賞用に親しまれていた」 とある。 「大名が茶会で競い合い、 各藩が製法を秘密にしたため、 いつしか失われた」 ともあり、 まさしくこの幻の技術を現代に甦らせるのが僕の眼目だった。
 ところが、 簡単とされる松ぼっくりでさえ、 形が崩れ小さく縮こまったり、 六時間焼き続けても全く炭にならず元の状態のままだったりする。 瓢箪は窯が爆発して破片が周囲に飛び散り、 竹を焼けば火災報知器が鳴り響く始末。 煙にまみれ、 火と格闘し、 それでもなお失敗の連続。
 転機は決断から訪れる。 今の自分の取り組みには精神的なバックボーンが必要だ。 本当の花炭を自分の目で確かめるしかない。 花炭を所蔵する大分県の寺まで出かけ、 その由来を確かめた。 するとインターネット情報には誤りがあることが判明した。 草木や花をその姿のまま焼く花炭は、 茶の湯で用いたのではなく、 炭焼き職人が自身の技術をアピールするためのものだったのだ。
 炭を作ること自体さほど難しいことではない。 植物を蒸し焼きにすれば炭になる。 元の形を保ったまま炭にするのが難しいのだ。 うまくできないと、 それは何故かと様々な原因を考える。 そこに高い再現性で上手に焼くためのヒントが大量に隠されている。 むしろ偶然うまく炭が焼けることほど怖いものはない。 「失敗は成功の母」 と言うが、 失敗こそ有難い。
 ものづくりには、 人が持つ 「技術」 と同時に、 個々人のスキルによらない 「技術」 =テクノロジーの側面がある。 不器用な僕はテクノロジーの要素をクローズアップする作戦に出た。 その結果、 ようやく見出したのが、 材料を砂鉄に埋めて蒸し焼きにする技法だ。 その技術をベースに炭焼きの修練を積むうち、 不思議と難しい材料も焼けるようになった。 気づかぬ間に技能も身につけていたのである。 その核心は窯からのぼる煙で窯上げのタイミングを見極めるノウハウだろう。
 漆黒で無機質の炭に生命の痕跡はない。 しかしうまく出来た花炭を見ていると植物が永遠の命を授かったかのようにも思える。 植物は大抵が炭にすると (永遠と引き換えに) 美しさを失う。 しかし稀に炭にした方が美しさが際立つ場合がある。 それこそ 「花炭」 なのではあるまいか。 炭は一〇〇%炭素。 自重に耐えきれず自ら崩壊することもある。 それでも生の花や実のように萎えたり腐るより、 風化し塵となって消える方が潔い。 これが花炭の世界観である。
 技術家庭の 「技術」 を僕は勝手にテクノロジーと解釈した。 技術開発のための実験は 「虫の目」 を研ぎ澄ます場であった。 加えて今回は、 文化・アート・テクノロジー・産業といった多様な観点から花炭を俯瞰する 「鳥の目」 も養った。
 製作での成果以上に大きかったのは、 労作展という経験を通じた自分自身の成長だ。 労作展は 「何をやるか」 はもちろん重要だが、 それ以上に 「向き合い方」 が大切なのだ。

 以上をもって、 労作展の自分なりの総括としたい。