労作展

数学科

2947本の関数で表す「走」・「攻」・「守」 / 「好き」を貫く

3年M.O.君

 「労作展」と聞いて、皆はそれぞれ違うことを思うだろう。「大変だったな」とか、「楽しかったな」とか。しかし、「なんか、中途半端だったな」とか、「もう同じ失敗は繰り返さない」と思う人もいるかもしれない。僕は、去年、そう思った。去年は計画の見通しが甘く、努力も足りず、散々なものになってしまった。だからこそ、僕は「今年こそは最後まで何があってもやりとげる」という堅い意志を持って労作展にいどんだ。
 四月。一学期が始まってすぐに労作展計画表が配られた。僕は「人生最後の労作展」をどうするか、全くいいアイデアが浮かばず、ずっと考えていた。一、二年生のときのものは大変ではあったが、完全燃焼とはいかず、中途半端なものだった。僕は「あんなことは二度したくない」と思っていた。そこで「とにかく努力すること」を決めた。次に、具体的にどうするか、僕は悩んだ。
 小さい頃から僕はずっと「好き」なことは一生懸命にやることができた。楽しくて、気持ちがいいから。僕は数学が好きだ。やればやる程、力が付くし、自分の知らなかったことをどんどん知ることができる。僕は数学の面白さに引き込まれていた。僕は小学二年生から七年間、ある計算塾に通っていた。僕はひたすら計算し、こなしたプリントの量は僕の身長と同じ量にもなっていた。それを目に見える形で表したとき、僕は感動し、最高に気持ち良かった。
 僕は、その感覚を思い出した。そこからは早かった。パッ、と「数学で絵を描く。」という考えが頭の中で光った。絵は僕は野球部だから、野球を大きく三つの要素に分けた、走・攻・守で三枚描くことにした。
 もちろん、最初はどうなることかと心配が尽きなかった。自分のカメラでタイマーをセットし、自宅の駐車場で写真を撮影した。なかなかタイミングが合わなかったり、写真がイマイチだったり。失敗を繰り返した。写真を撮った後は、A1サイズのものすごく大きな紙に生まれて初めて絵を描いた。ひどかった。手足は短く、赤ちゃんみたいで、関節は所々おかしな方向を向いていたり。僕の心は折れかけた。しかし、僕は「最後まで努力する」と決めていた。歯を食いしばり、汗水たらして何度も、何度も、何度も、満足するまで絵を描き直した。気が付けば新品だった消しゴムは親指の爪程の大きさにまで小さくなり、僕は消しカスまみれになっていた。
 やっと絵を描き終えた僕は「やっと数学に入れる」と思い、気持ちが楽になっていた。しかし、大変なのはここからだった。式を求めるには座標が必要で、座標を読み取るには x軸と y軸、そして目盛りが必要である。そこで、一㎝ごとに紙全体に目盛りを打つことに決めた。A1の紙三枚に一㎝ごとに点を打つとどうなるか。想像できるだろう。二万四千個もの点を僕は打った。僕は三日間、ひたすらに点を打った。これが労作展でもっとも辛かった。手は関節の部分が痛くなり、ストレスはたまり、大変だった。まさに最も労作を作っている瞬間だった。
 八月下旬、僕は焦った。「これ、終わらせるの無理だろ…」と。改めて計画を立てたからだ。僕は旅行先にも計算ノートを持っていき、朝から晩まで本当に計算しかしなかった。遠出して帰りが深夜十二時を超えようと、家族が昼寝していようと、ずっと。勿論、大変で、時間はかかった。しかし、苦にはならなかった。何故なら数学が「好き」だったから。むしろ楽しかった。自分の力がどんどん高まるのが楽しかった。
 そして遂に完成。全てが終わった時は何も言えず、絵と計算ノート十六冊を目の前で見た時は最高に気持ち良かった。「やったー!」とか、「よし!終わった!」などの言葉は一切出ず、ただただ満足感と達成とうれしさ、疲れ、安心感に浸っていた。この作文の文字数よりもさらに多い数の計算式、二千九百四十七本を求めたのだ。夏休みで最高の時間だった。
 そして労作展当日。僕は土曜の朝一番に自分の作品を見に行った。そこには「賞」の札と、その裏には赤いペンマークもあった。三年間で初めて貰った賞。さらに特別展示にも選ばれ、もう何も言えず、ものすごくうれしかった。やっぱり自分が好きなことをやって報われるうれしさは気持ち良かった。
 僕はこの最後の労作展で、考え、苦しみ、悩み、楽しんだ。このような記念になる「労作」を作れて、本当に良かったと思う。