2018年度 目路はるか教室

2018年度 目路はるか教室
1年全体講話

『彰往考来』 歴史に学んで未来を考えよう!

昭和48(1973)年卒業東京海上日動火災保険 株式会社

徳川 斉正 氏(とくがわ なりまさ)

 第21回目路はるか教室1年生の皆さん、全体講話を熱心に聞いて頂くだけでなく、感想文まで頂き有難うございました。全て読ませて頂きました。

 テーマにした「彰往考来」は、「すぎたるを あきらかにして きたるを かんがえる」と読み「歴史(過去の事実)を明らかにしてそこから学んで、得た学びを参考に未来を考えよう」という意味で、我が先祖水戸徳川家二代目の徳川光圀が遺した言葉です。この言葉は私のお気に入りですが、この言葉は光圀の時代よりはるか昔の中国で生まれた言葉です。良い言葉、意味のある言葉は、何百、何千年と言う時を経ても陳腐化せず語り継がれるものです。

 そこで歴史の授業とは少し趣向を変えて、今も語り継がれている「先人の言葉」、中でも江戸時代前後の日本を築いてきた私の先祖や、有名な武将達の遺した言葉を、皆さんの学校生活に置き換え易いものを選んでご紹介することにしました。これらの言葉は何百年も前の言葉ですが、現代の日本でも十分通用する言葉だと思ったからです。

 冒頭に「皆さん、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、水戸黄門って、知っていますか?」と質問しました。すると大半の皆さんが手を挙げてくれ、ちらほらと「水戸黄門って徳川光圀だろ」との声も聞こえました。その時「そうだ、皆さんは並みの中学生ではない、普通部生だった!」と気付き、誇らしく、また頼もしく感じました。

 一方、折角聞いて頂いたのに、私の話し方が悪くてきちっと伝わらなかった点もあったと思います。まずはお詫びし、改めてご紹介した「先人の言葉」と捕捉を書き残しますので、いつの日か参考にして頂くと共に、「過去は未来の種」ですから日本の歴史にも興味をもって頂けたら幸いです。

紹介した言葉

●織田信長(1534年生まれ)

生まれながらに才能のある者は、それを頼んで鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々努力する。心構えがまるで違う。これが大事だ。

●豊臣秀吉(1537年生まれ) 主従や友達の間が不和になるのは、わがままが原因だ。

●徳川家康(1542年生まれ)

①天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。

②人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし 堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え 勝つことばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る 己を責めて人を責むるな 及ばざるは過ぎたるに勝れり

③われ志を得ざるとき忍耐、この二字を守れり。われ志を得んとするとき大胆不敵、この四字を守れり。われ志を得てのち油断大敵、この四字を守れり。

●徳川光圀(≒水戸黄門※)(1628年生まれ)

①苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし

②誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ母を最も苦しめた日だから。

※「≒水戸黄門」としたのは、権中納言の官位のことを「黄門」と言い、権中納言を頂いた水戸藩主、即ち「水戸黄門」と呼ぶべき人は光圀以外にも6人いたからです。

●福沢諭吉(1835年生まれ)

今の苦しみは楽しみの種である。今の楽しみは苦しみの前兆である。

捕捉

●私に家康の血が約4400分の1ほど入っていると申し上げたが、約1400分の1の言い間違いなので、訂正してお詫びします。以下が計算条件です。

家康の末っ子である水戸徳川の初代頼房には2分の1、その子光圀には4分の1、次は養子であるが光圀の兄の子なので8分の1、以下同様。お嫁さんが別の徳川家から入ってきたときには、単純に2分の1にはならず少し血が濃くなる。兄弟が順番に当主になっている代は、血は薄まらない。

●東日本大震災では、損害保険会社全体で約1兆4000億円の保険金を被災したお客様にお支払いし、1日でも早い復興をお助けできたと思っている。

●お話しした津波石は、昭和8年の三陸大津波など過去に東北地方で起きた津波が内陸部まで運んできた岩石。大きな津波を経験した昔の人々は、体験をその石に刻み、語り継いできた。「その石よりも高い所に逃げて!」という過去の人々の未来への忠告であったと思う。それに学んでいた人たちは難を逃れている。

●家康のポッケットマネーは、現在価値で約270億円。そのお金は、家康の死後、子供たちに遺産分けされ、子供たちが大名家としての体裁を整えるために使ったので、我が家には全く残っていない。埋蔵金発見に期待する(笑)

●刀と太刀の違いについて。戦国以前の戦いは主に騎馬戦であり、馬上から馬上の敵、または地上にいる敵を倒すために長い刀(=太刀)が必要だった。太刀を腰にさして馬に跨ると手より長くて抜けないので、刃を下にして腰にぶら下げていた(鎧を着た武将たちの絵を見て確認してほしい)。太刀を抜くときは腰から離して半円を描くように抜いた。後の時代に地上での接近戦が主流になると、軽くて、太刀より抜き易い短い刀が主流になり、抜いたと同時に近くの敵を切り倒せるよう、刃を上にして腰にさすようになった。

博物館では着装した姿と同じになる様に、太刀は刃を下、刀は刃を上に展示している。

 以上、これから未来に向かって羽ばたく皆さんの参考になったなら幸いです。

 徳川ミュージアムの収蔵品、西山御殿跡、水戸徳川家瑞龍山墓所は、大事な歴史の証人として頑張って維持していきますので、見に来てください。

 最後まで読んで下さって有難うございました。ご活躍を祈っています。

 

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