労作展

2020年度労作展 受賞作品

国語科

創世心

3年K.R.君

どんなことであっても、 明確な目標などがなければそうそう続かない。 小説だってそうだ。
 小学生の頃、 読書が好きだった僕は自分も小説を書いてみようと思い立った。 小学生、 といっても小学二年生。 パソコンなんて使えない。 すべて手書きだ。
 人生初の執筆は、 三十分で飽きた。 学校の作文が嫌い、 という人達ならこの気持ちが分かるのではないだろうか。 手を動かすということがもう面倒なのだ。 頭で考えていることがそのまま言語化されて紙に写し出されたらな、 などと考えたこともあった。
 だが、 書きたくないというのとは違うのだ。 面倒だけど書きたい。 書きたいけど面倒だ。 じゃあ、 どうするか。
 どうするもこうするもない。 荒治療しかないのだ。 「小説を書かざるをえない環境」 さえあれば良い。 労作展というのは、 そんな僕にとって絶好の機会だった。 「労作展」 という名前の課題なのだから。 こうして、 不純な動機で僕の労作展一年目が始まった。
 課題として向き合うと、 想像以上に筆が進んだ。 元々国語は得意だ。 歴史も好きだし、 何より和田竜の 『のぼうの城』 に影響を受けた。 だから僕は歴史小説を書いた。 この 『坂東忍者』 は賞をもらうことができた。 だが、 僕は少し不満だった。 何に? 自分にだ。 人の小説を参考にして小説を書いた。 盗作だと言われても反論できない、 反論しない。 来年は自分の言葉だけで小説を書こう、 と僕は決意した。 二年目になり、 僕は小説を参考文献に使わず書いた。 何冊もの史科を読み、 城の内部構造まで調べた。 「労作」 と言えるだろう。 そしてこの 『坂東忍者 弐』 も賞をもらえた。 だが、 「去年と同じことの繰り返し」 と言われてしまった。 つまり、 僕は去年書いた小説を盗作していたのだ。 舞台を変えただけで、 その化粧が剥がれ落ちれば本質は何も変わっていない。 作業量は労作展において重要だが、 作業量だけの作品なんて論外じゃないか。
 三年目になった。 一年、 二年と賞を取ったので、 三年も賞を取りたいという気持ちがやはりあった。 「先生が気に入る作品」 というものについて考えてしまう自分がいた。 だが、 そうやって書く作品はなんだか気持ち悪い。 自分が書いたと思えない。
 では、 自分が書いた作品とは? 良い作品とは? 本当に作業量は大事なのか? ゲーテという人物は 『ファウスト』 を六十年かけて書き上げた。 カフカは 『判決』 をひと晩で書き上げた。 分量も時代も違う、 だがどちらも名作として名を残している。
 作業量とは、 パソコンとにらみ合っていた時間の長さだろうか。 違う。 僕達が生きてきた中で見たもの、 触れたもの、 それらを集約して物語にする。 君の表現技法は、 君のオリジナルで、 オリジナルじゃない。 今までに知った技法を真似て、 工夫して、 加工して、 オリジナルになる。 三十分で書いたものも百年かけて書いたものも、 全力で向き合っていれば価値がある。 皆、 「時間」 を重視する。 事実だ。 間違っていない。 作品と全力で向き合えば、 三十分では書ける筈がない。 それどころか一生かけても満点は出せないくらいだ。 だが、 だからこそ忘れてはいけない。 最も罪なのは 「作業量」 という言葉に囚われることだ。 どんなに常識とかけ離れていても、 自由に、 自分に正直に書くべきだ。 そうやって書いたなかでの悩みや努力を包み隠さず日誌に書けば、 それで十分作業量は評価されるだろう。 中身の評価、 なんてものは究極的には審査する人の好みだ。 とにかく自分が納得できるものを書くことだ。 満足できなくても、 「これは僕の作品だ」 と堂々と言えれば十分だ。
 国語に正解はない。 王道、 邪道はあれどどちらも立派な道だ。 書きたいように書けば良い。 僕は自分の好きに書いて賞をもらった。 作業量を意識的に増やしたわけではない。
 ずっと同じことばかり言っている気がするので、 まとめるとしよう。 小説に法律も校則も性別も何もない。 何もない広大な空間で、 君は神様だ。 自分だけの世界を作り上げる力がある。 神様なんだから、 賞を与える審査員よりも偉いんだ。 だから、 小説を書くことを楽しんで欲しい。 五十日の夏休みでは足りないくらいに、 楽しんで欲しい。 創造心、 いや、 「創世心」 を目一杯ふくらませよう。