労作展

国語科

小説「夜の蝉」 / 「変革」の労作展

2年Y. T.君

 一年生にとっては初めての労作展。三年生にとっては最後の集大成となる労作展。では僕たち二年生にとっての労作展はどのような意味を持つのだろうか。様々なドラマをはらむその行事を一言で言い表すことは無粋かもしれない。それでも僕は自分自身の労作展をこの熟語で表したい。「変革」だ。
 夏休み前、僕のなかにあったのは重圧と焦燥だった。昨年の労作展で僕は実地取材と取り組み姿勢を評価され賞を頂いた。しかし肝心のストーリーについてのコメントは少なく、短編集だからと少々気を抜いていたことが祟ったのだと直感した。昨年を超越しなければいけない。それもストーリーで評されるような小説で。それなのにいつまでたっても湧き上がらない構想。焦りとプレッシャーに挟み撃ちにされる日々が無情に過ぎ去っていく。
 普通部に入ったら労作展で小説を書こう。それは小学校の時からの決意だった。もともと読書が好きで、少しだけれど小説も書いてみたりしていた僕は、一年生のとき迷わず国語科に決め、長編ではなく短編に挑んだ。このときの思いは「ただ多くの人に読んでもらいたい」。それなら一話完結がベストではないかと思ったのだ。しかしそれほど甘くない。僕の小説を一話でも読んだ人は数えるほどで、大人は一ページめくるだけ、生徒は触れることにすらなぜか抵抗があるくらいだった。偽りの嘆息を漏らされるくらいなら、自らが満足できる作品の方がいい。僕は長編に照準を合わせた。
 焦りがつのり、本格的に頭を悩ませ始めたころ、状況を一変させる些細な出来事が起きた。
 僕が見たのは小さなニュースだった。木造校舎の学校で火事。刹那、僕は脳内で、これだ! と叫んだ。
 長編小説という額縁のなかに突如落とされたパズルのピース。それに呼応して他のピースもはまり始め、物語の形に一応できあがったという快感が、更に僕を加速させた。茨城県の廃校への取材、登場人物の整理、細部の設定の検討などなど。夏休みの宿題、部会などもこなしつつ、小説の準備段階を整えていった。
 そしてついに、最初の一文字へ。しかし、僕の手はキーボード上で止まってしまった。数行打ち込んでも、全くしっくりこない。先程のパズルでたとえれば、額縁のなかにおさまったピース。そこはまだ白いのだ。ここにどんな絵を描くかは、作品の出来を大きく左右する。その重要な手が止まったのだ。
 思えば、昨年の夏から小説なんて一切書いていない。まとまった文といえば作文くらいか。僕は今さらながら、自分の認識の甘さを恨んだ。
 でも引き返せない。多少の文のひどさには目を背けながら下書きを進めていった。それはひどい苦痛の日々。自分の文章力に嫌気がさし、投げ出すこともままあった。そして追い打ちをかけてくる、提出期限という悪魔。執筆する環境を変えたり、音楽を聴いてみたりと苦肉の策をうっても、自分の小説に対する不信感はぬぐえなかった。
 ついに向き合うことすら恐れ、現実逃避を犯した僕に解決策は転がってきた。小説の薬は小説ということか。行き詰まった状態で読む本たちは、ただの娯楽ではなく、ある意味教科書へと昇華していた。こんな表現あるのか、と。そしてキーボードを叩く指は自然と軽くなっていたのだった。
 そして清書まで終えたとき。その大いなる満足感は昨年とは全く違う。一つの物語を、一つの世界を自らの力で作りあげた達成感は何物にも代え難いものであった。ただ不思議なことに、俄然何か書き出したい衝動に駆られた。まだ物足りない。これ以上のものをまだ僕は創造できる。そんな自負に包まれていた。
 今年の作品は明らかに昨年を越える「変革」ができたのだろう。来年はどこまで「成長」し、さらなる「変革」をとげることができるだろうか。
 また一年間、文章修業が始まる。