労作展

2018年度労作展 受賞作品

音楽科

労作展の教えてくれた音楽

3年Y.U.君

 何故僕はドビュッシーの音楽に惹かれるのか。昨年度末、来年がドビュッシーの没後一〇〇周年だと聞いた時にそう思ったのが、僕の作品の契機だと言って良いだろう。特に労作展について考えていたわけではなかったのだが、彼に関するいくつかの書籍を買い、ざっと手許にあるドビュッシーの音源を整理して聴いてみた。それから月日を挟んで労作展計画表提出のシーズンになり、さあ何をしようかという時、やはりドビュッシーを扱うのが妥当だと思えた。タイミングのことも勿論あるが、自分の好きなことに正面から向き合う労作展の集大成として、偏愛する彼の音楽を研究するのは至極真当なことだと思ったから。

 様々な文献を繰って調べていくうちに分かってきたのは、ドビュッシーが「デカダン」だったことだ。彼は世紀末フランスの文化を呼吸して育ったため、過去のクラシカルな芸術のほかに奇怪な小説や如何わしい数秘術にも興味を持っており、グロテスクなものさえ自身の音楽に取り入れていたことを知った。そして、このようにドビュッシーという芸術家の感性に多大な影響を与えたある種の「陰」の要素が、今日彼の音楽を形容する代表的な文句である「印象派」という言葉からあまり感じられないため、(僕に言う資格はないのかもしれないが)物足りない演奏が蔓延したり、アラベスクに代表されるロマンチックな曲ばかりが注目されていたりする現状があるのではないかと考えるようになった。彼が大きな関心を寄せていた象徴主義の文学からヒントを得た、単なる描写を超えるための表現の追求と、世紀末文化が彼に与えた暗い色彩の重要性を意識するようになり、そしてこのような見地から改めてドビュッシーを聴き直すことで、後期の作品に見られる書法の円熟や、あまり知られていない作品の魅力を深く感じられるようになった。更に、この感覚を応用していくことで、自分の演奏に奥行きを持たせられつつあるのではないかという希望すら見出せた。研究、鑑賞、演奏全てを掘り下げて音楽と主体的に関わることから生まれる自分の中での変化を実感した。確かに、自らの演奏に心から満足出来る日はまだ遠いと思う。しかし、今回感じたそれに対する不満はいつもの「やり残し感」とは違うものであり、労作展活動ともいうべき一連の作業が示唆してくれた新たな可能性から来ているように僕は感じた。

 ピアノを演奏するというのはハードな作業だ。技術的なこと、例えば正確なテンポ感や美しい音色を生み出す打鍵を身に付け、維持するためだけでさえ、何時間もの毎日の練習が必要とされる。しかし、これらは手段に過ぎず、真の目的は音楽を表現することだ。楽曲の本質に近付き、心の深い部分で美を感じること、そのために綿密な調査や確実な楽曲分析といった地道なプロセスもおろそかにしないこと、これらの大切さを僕は労作展を通して痛感した。このような学びの場を与えてくれた普通部に対する感謝の念に堪えない。