2016年度 目路はるか教室

2016年度 目路はるか教室 2年全体講話

日本における罪と罰を考える

昭和46(1971)年卒業中央大学大学院 法務研究科 教授

井田 良 氏(いだ まこと)

 私は、30年以上の間、法律学、特に刑法学を研究してきました。何を考えてきたのか、と問われれば、日本的特殊と西洋的普遍、その狭間で悩みつつ、日本法のあるべき方向・進むべき方向についていろいろ考えてきた、そうお答えすることができます。
 日本は、明治期において、法制度を新しくして近代国家になるために、西洋法を輸入(継受)しました。イギリス法から始まって、フランス法を取り入れ、明治政府主導によるドイツ法の積極的導入の時代を経て、第二次世界大戦後はアメリカ法の影響を強く受けました。
 その一方で、日本人は、外国のものを日本に輸入するだけでよいのか、守らなければいけない日本固有の文化もあるのではないかという気持ちも強くもっています。明治期以降、あるいはそれ以前から、「日本的特殊と西洋的普遍の狭間で悩む」ということがありました。それは、福澤諭吉先生の悩みでもあったのです。
 今日は、裁判員制度を取り上げて、特殊と普遍の間で悩む日本の姿をお見せしたいと思います。この制度は、ドイツの参審制に近いのですが、アメリカ等の陪審制の要素も取り入れており、「米独折衷型」になっています。
 この制度の導入により、「裁判の民主的正当性を高めることができる」とか、「一般市民が裁判に関心をもち、その理解を深めることができる」と言われています。しかし、この制度を導入しなければならなかったのは、世界にも稀な状態という意味で「ガラパゴス状態」とも言われるのですが、日本特有の裁判のあり方から脱却して、諸外国のようなレベルの裁判制度にする必要があったからです。
 伝統的に日本の裁判は、裁判官が捜査機関が作成した書類をじっくり読み込んで、検察官の主張の正しさを確認するというやり方、いわゆる「調書裁判」でありました。裁判官が自室で調書を読んで白か黒かを決めるのであれば、公開の法廷で裁判を行う必要はない。そこは書類の受け渡しの場でしかないということになります。それは西洋的な裁判のモデルからは外れたものだったのです。そればかりでなく、容疑者に対する密室での取調べに対しても批判は強く、難しい事件だと裁判がとても長引くことも問題視されてきました。
 裁判員制度は、これらの問題をまとめて一挙に解決することを可能とします。書類を読むのではなく、法廷でのやり取りを通じて白か黒かの心証を抱くようにしなければならないからです。一般市民をあまりに長く拘束できませんから、裁判の迅速化は当然ですし、 取調べの可視化も進みます。
 皮肉な見方をすれば、法律専門家たちは、「ガラパゴス状態」から一般国民を犠牲にして脱出した。これが裁判員制度であるともいえるのです。しかし、この制度が今後どうなっていくのか、将来への不安も残っています。
 日本的特殊と西洋的普遍、その狭間で悩む日本法の姿、今日は皆さんにその一端を示すことができたとすれば、うれしく思います。
 最後に、慶應義塾の一貫教育の話をしたいと思います。私程度のささやかな能力をもった人間が学者として幸福な人生を送ることができたのは、慶應義塾の一貫教育のおかげです。普通部・塾高と6年間、自由にいろいろな本を読むことができました。知的に成熟した学生として大学に進学することができたのです。
 学者になってからも、法律学の分野では東大や京大が強いのですが、私はまったく引け目を感じたことがないし、研究者として互角以上に業績を上げて来られたと思っています。それも、慶應義塾で自由にものを考え、自由に本が読めて、すぐれた仲間とつきあうことのできたおかげです。
 皆さんも、今のうちにたくさんものを考え、たくさん本を読み、先生のおっしゃることを刺激として受け取り、また仲間と議論をして下さい。きっといつか大きな果実が実るはずです。