2020年度 目路はるか教室

2Gコース

目路は遥けく、懺悔録

1990(平成2)年卒業内閣副広報官兼内閣総理大臣官邸国際広報室長

松本 好一朗 氏(まつもと こういちろう)

 私は慶應義塾には、幼稚舎から大学まで、16年間お世話になった。ゆえに確信をもって言えるが、慶應義塾の中で、普通部が一番いい学校だ。

 こういうと幼稚舎や塾高の恩師は怒るだろう。ならば、こういうことか。「私は普通部で最も多感な人生の一時期を過ごした。その紛れもなき思春期の少年の心を、普通部の先生方が真摯に受け止め、育み、慈しんで下さったのは私の人生において幸いであった」。

 青春の入り口に立ち、戸惑い、自己肯定感を求めてやまなかったあの少年期の私に、普通部の先生方は実に優しかった。求道者として学問を志した人がもつ威厳と教育者がもつ温かみが同じ人格のうちに同居していた。そしていずれもどこか可笑しみのある紳士であった。ハムイチ、ペロ、ガマ、コタジ、ナカアライ(呼び捨て……)。今では多くが鬼籍に入られた名物教師の方々の面影を思うとき、女子の存在が皆無であったにもかかわらず、今なお胸の柔い部分に疼きを覚えるのは何故なのだろう。

 そういえば、昭和の最後の日、昭和64年1月7日の夕焼けを、校舎の屋上で友人達とハムイチ先生の4人で眺めた。先生を慕う生徒何人かで、週末だというのに教室でルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」を観た後だった。薄暮の空に向かって一言。「松本君は才気煥発の論客ですね」。ハムイチさんのあの一言で自分の生きていく上での座標軸が定まったのではなかったか。それにしても、中学生相手に、才気煥発とかいいますかね普通。

 かくも思い出深き学びの舎に、自分はいったいどれほどの恩返しをしてきたのだろう。同窓会というと、連合三田会か幼稚舎連合同窓会に足が向く。女子がいた方が盛り上がるからなのか、頻度も多い。ごめんね普通部。おれ、本当は普通部が一番好きなのに。そんな罪の意識をひた隠し、今日まで生きてきた。

 かくして、今回の教室が、積年の無礼無沙汰を詫びる機会となった。とにかく、参加する普通部生がワクワクして前夜に眠れなくなるような授業をやりたい。そのためには、自分が前夜に眠れなくなるくらい楽しいことを企てたい。生徒が受け取る熱量は、講師の熱量を上回ることはないからだ。

 考えついたのは、私の外交官や官邸官僚としての職務の紹介は短くし、残りの2時間で生徒23人を6チーム(日米中韓・北朝鮮・メディア)に分け、北東アジア情勢についてシミュレーション・ゲームをするということである。場所は、実際の外交交渉が行われる外務省の大会議室とした。各人には大統領や国家元首、首相や外相の役職や、ジャーナリスト役を割り振り、極限的な状況設定をして、北東アジアの安全保障を「一人称で」議論させた。授業の最後には各国代表がスピーチをし、優勝チームと、ベストのジャーナリストを決めることとした。計画の壮大さに準備が追いつかず、私は前夜の準備で徹夜してしまった。

 迎えた当日、ゲームが始まると、与えられた設定を楽しむかのように生徒は快活に会議場を跳び回り、各チームが国益を考えて交渉し始めた。生徒の目は光り、交渉する姿は真剣だった。最後の総括で私が強調したことはこれだ。「僕はチーム分けで、ひとつのチームに同じ組の人が入らないようにした。だから、別のチームに、自分のクラスメートがいたと思う。友人が別の組織に居たので、交渉がやりやすかっただろう?友達が違う組織に居て、仕事でつながると、とてつもないことができるものだ。友達を大事にして欲しい」

 いささかのご恩返しはできたのではないか。あの生徒達の熱い眼差しを、会議室の熱気を、ハムイチさんをはじめ、私を育てて下さった全ての普通部の先生方に捧げる。紹介してくれた神谷宗之介君、手伝って下さった籏野先生と谷口先生、同じく普通部OBの小川寛人課長補佐に御礼を申し上げる。そして外務省に来てくれた若きサムライたち、君達の知識と行動力には驚いたよ。また会おう!

 

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