2018年度 目路はるか教室

2Hコース

弁護士も法律ばかりじゃ能がない

昭和61(1986)年卒業ときわ法律事務所

濱田 芳貴 氏(はまだ よしたか)

 この謎めいた授業に参加いただいた、普通部生26名の諸君への謝辞。

 事前に講義メモも作らず、当日のレジュメの配布もなく、心の赴くまま教室に闖入し、挨拶もなく無言のジェスチャーでもって机と椅子をコの字型に並べ替えるよう指図し始め、さぞや困惑されたことと思う。

 一応、刑事裁判(検察官(国)vs被告人(個人))や民事裁判(原告vs被告)の構図、弁護士(全社における弁護人・後者における訴訟代理人)の役割についての説明こそしたものの、実は争いごとは好まないから裁判案件はそれほど手がけていない、刑事弁護はしていない、などと身も蓋もないことを述べ、もしや愕然とされたのではあるまいか。

 事業の再生(または清算)の現場では、いろいろな利害を抱えたたくさんの関係者が同時に登場するため、その混沌とした状況の中で、それぞれの人の想いを汲みながらも、その想いを抑えていただく面も含め、さまざまに折衝を重ね、結果、皆にとって少しでもマシでマトモな状況にまで事態を収束していくことが肝要で、とはいえ、そうした仕事自体は(裁判手続で代理人になる場合と異なり)、絶対に弁護士でなければできないわけでもなく、ただ、弁護士という資格を得て活動する過程で身につけるべき法的な思考力や紛争の解決力が役に立つのだ、などと怪奇なことを説き(ここがエンデの「モモ」にも関わるわけだが)、さらに混乱を招いてしまったかもしれない。

 しかし、ではどうすれば弁護士になれるのか、といった方法論については何をも語らず、ただ、「人の患いは好みて人の師と為るに在り(孟子)」だの、「いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも(宣長)」だのと、ある意味、正直に白状したものだから、それで嗚呼と落胆された方もおられたかと思う。

 とはいえ、何が正しいのか、何が役に立つのか、何が無駄なのか、何が間違いなのか、その時、その場で、確信までは抱けないのもまた、人生の真実ではあるまいか。

 実際、後に何か御利益らしきものを得られる場合もあろうし、さらに後に至り、やはり何か思い違いか思い上がりであったと反省する場合もあろうし、ことの善し悪し含め、特に何も起きない場合も多々あろうし、つまり、歴史には法則があり未来は計画できるものであるかのごとく、自分のことでも他人のことでも仲間のことでも仇敵のことでも、物事は必ず科学的に合理的に推移する(べき)ものだと思い定めていると、あに図らんや痛い目に遭いがちなのもまた、浮世の真相といえまいか。

 結局、法律家を目指すか否かにかかわらず、地に足のついた教養、足るを知る心、智慧と慈悲、礼儀をわきまえた人との応接、そうしたことどもの蓄積こそが、将来、世に出て人の役に立つために必要な資質なのではないか、そうだとした場合、諸君が今できる(すべき)ことは何かといえば、とにかく勉学でも部活でも趣味でも、日常や非日常の体験や経験を累々と積み重ねていくことに尽きるのではないか、そういった思いもあり、自分が中学や高校の時分に何をしてきたか、しでかしてきたか、あれこれと雑話してみた次第ながら、音楽、旅行、文学、陸上、電気、その他、それはあまりにも錯雑とした私的な過去ゆえ、よい子は真似をしない方がいい部分も少なからずであったかもしれない。

 ともかくも、諸君らの中から将来の法律家や事業再生実務家などが誕生することになれば、それは望外の喜びであり、もし10年ほどの時を経て法科大学院などの場でお目にかかれる機会でもあれば、是非お声がけいただきたいものである。

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